お久しぶりです。

 

久しぶりにブログを書いてみようかな、と思ったが、前回更新したのが2年前だった。

過去の私は何を思って書いていたのか気になり全部の記事に目を通した。こじらせている。とてもこじらせている。ウェイ系じゃない大学生の感じが前面に出ていた。カルピスの原液を飲む、みたいな胸焼けする感じがした。飲んだことはないけども。

 

久しぶりにブログを更新するに至った経緯として、アウトプットの練習を再開したいという思いがある。

社会人になってしばらくしたが、大学生の頃より確実にアウトプットが下手になってきている。

大学生でいる頃はレポートが課せられていたし、文章を読まざるを得なかったため、ある程度の文章力とか読解力とか論理力とかそういうのが保たれていた。

しかし会社にはその力を保つ仕組みがない。そういう状況下だと、自身の改善意識によって仕事が増える。例えば最低限の仕事はお客さんに資料を提出することだが、その資料の質を高めるために別の調査をしたりする。

逆に言えば、改善意識がないと相手にものを伝える努力をさぼってしまう。そうしてずるずると過ごし、気づけば論理的思考力や的確にものごとを伝える力が衰えてきてしまった。

だから、ブログとして誰に読まれるでもない文章を更新して、アウトプットの練習をし始めよう、という流れである。

いつまで続くかは分からない。また次に更新するのは2年後かもしれないが、とりあえず何となくで、いろいろ書いてみようと思う。

 

 

ちなみにブログを開設したのは2016年5月11日だった。ほぼ3年前である。

私は5月ぐらいに文章を書きたくなる傾向があるのかもしれない。

 

 

メモをとる習慣


みなさんお元気ですか。

お久しぶりです


最近、わたしはバタバタしてた。

合宿やらサークルのイベントやら、結構忙しかった。


で、自分のことを何でもメモする習慣をつけてたはずだったのに、その習慣をなくしてしまった。

せっかく買ったA5のノートも、もはやインターンの時ぐらいにしか使っていない。

日記を書く癖も、もう忘れ去られている。


わたしは、短期記憶のメモリが少ないと思っている。

さっき聞いたことをすぐ忘れる。

スマホの機種変とか、何回も同じこと聞いちゃうタイプ。


だからこそ、いっぱい自分のメモを残しとくべきなのに

その習慣さえ忘れてた。まずい。


これからメモするようにしよ。

ちゃんと大事なこと忘れないようにしよう。





選択


ひとって選択で成り立ってる。

オカンがオトンを選んで、自分が生まれて、
生まれたばかりのときは両親の選択にある程度従って、でも成長して、私自身が選択をすることになる。


後悔。
自分が納得して選んだそれに愛着が湧かない、むしろ選ばれなかったそれに対して執着してしまう。

特に、買い物の際値段で選んでしまったときと、多数決をして私の意見が通らなかったときはそうなる。

自分がぶれない、頑固者だってことは自覚してる。だからこそ、人の意見を大事に聞かなきゃいけないのも。
それで上手くいったこともあった。
けど、たまに思う。
私はもっと意見を通すべきだったんじゃないのか?
私の選択は合ってたのか?
前に別の選択を取っていれば、こんな辛い思いしなくて済んだんじゃないか?

頑固者の私は、自分の選択肢をすごく大事にする。
私にとって、すべての選択肢は、「救いようがある」「ない」に分けられる。
正解なんて最初から無くて、殆どのケースでは私の努力次第で選んだ道を正解にできる。という、ご都合主義な考え方である。
でも、その軸はずっとぶれてない。

だからこそ。
例えそうなることを自分が選んだとしても、人の意見に流されるという選択肢を愛せない。どこかで後悔が生まれる。

そして「あのときこうしていれば」という無意味なパラレル思考に陥る。



これを防ぐために、私は何をすべきか。
すべてを正直にぶちまけることじゃないかと思う。

私は性格が悪い。頑固で空気が読めなくて、失敗が怖くて虚勢を張って、でも目立ちたがりのかまってちゃんである。
でも、私が思う以上にみんながそれをわかっているはずだ。
今更虚勢を張る必要なんてない。嘘ついて「みんなのためにこうしたい」って言うより、「私はこう思ってるからこうしたい」って言ってもいい人たちに恵まれた。
仲良い人たちに、もっと正直でいよう。


今回の教訓:
自分の見栄やプライドを捨てる。


具体と抽象


想像力ってだいじ。

先日聞いたことばである。


ここでいう、想像力とは何なのか。

具体例から抽象概念を取り出したり、抽象概念を具体例に応用する力は想像力だと言える。


例えば、

I am a student.

She is a girl.

この2文が並んでいた時、「主語の後ろに動詞がある」と気づく。これが具体から抽象。

「三人称単数現在の文には動詞にs、esがつく」と言われた時、

She plays tennis.

とする。これが抽象から具体。




そして、この想像力というものは論理的でなくてはならない。

そのため、演繹と帰納の考え方が必要になると思われる。



まず、演繹とは何か。

簡潔に言うと、論を組み合わせて仮説を証明する方法である。

例えばa=b、b=cが正しいとする。すると、a=cも証明される。といったものだ。

実生活においては、今日は水曜日。水曜はゴミ出しの日。ならば、今日はゴミ出しの日。といった具合である。



帰納とは何か。

数学Bの授業を受けた方は記憶の隅にとどまっているであろう。

私は残念ながら細かい公式を覚えていないため、正確に説明する事はできない。が、事例をいくつか挙げて仮説を証明する方法である。


この話をすると、よくドミノ倒しの例が使われる。

1番目のドミノが倒れた、すると2番目のドミノが倒れる。

2番目のドミノが倒れると、3番目のドミノが倒れる。といった具合に。


普通の帰納は1が倒れると2が倒れる。2が倒れるなら3が倒れる。であれば、100番目も倒れるだろう。といった考え方である。

数学的帰納法ではこれをx番目も倒れる。という風に仮定して、1が倒れた。x+1も倒れた。ならxは倒れているはず。という風に論を展開する。


実生活でいうと、

先々週、先週共にゴミ出ししてって頼まれた。

じゃあ今週も、言われてないけどゴミ出しした方がいいのかな?

ってことである。

これに気づけるか気付けないかで仕事が出来るか出来ないか、大きく分ける、ように思う。


いや、思うだけで鍛え方とか知らないんだけどね。

注意しようって思いました。


それだけ。





人に寄り添う仕事


友達とご飯を食べた。


この友達、凄いやつ。どんな人と居ても基本嫌がられる事がない、凄いやつ。

私は性格が悪いのを自覚しているが、そんな私にも彼女は分け隔てなく接する。超いいやつ。



そんな友達に、「保険の人になればいい」と言われた。


友達曰く、人を見るのが得意だからその人個人に寄り添う仕事をしたら良いと思う、と。


とても納得した。今は個別指導塾でアルバイトをしているが、高3生に対しての仕事は正にそれである。

その子の学力を考えて、志望の大学に行けるような学習プランの組み立て。


責任は重大。だが、単純作業の繰り返しでしかないバイトよりは断然やりがいがある。個人的にはとても楽しいバイトだと思う。


就職したら、この性質を生かすことができるんだろうか。

自分の性質を生かすことができる仕事に就きたい。

判断力がなってない


私には、判断力がない。


判断力とは、文字通り判断する力である。状況を的確に把握し、そこから最良の判断を下す力。


人からよく「判断力がある」と言われる。

が、声を大にして言いたい。判断力がある訳ではないのだ。

主観に、その時の気持ちに、大きく揺さぶられてしまう。自分の中にぶれない基準を持つ訳でもない。判断力がない。


判断力がある、と見られるのは

人の意見を聞いてまとめて意思決定する立場にあるからなのでは、と毎回思う。

個人的にはみんなの意見を聞いて、その中で良い案を論理的に選ぼうとする習慣を継続させている。その成果が出ている、のだと思う。


成果が出ているなら、まあ、良いんだけどね。